イタリアの民主化 1870s~1920s

歴史・政治学
ムッソリーニと黒シャツ隊
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カミッロ・カヴ―ル
(1810~1861)

1861年にサルデーニャ王国により統一されたイタリアは、フランスにならって中央集権的な制度を導入した。しかしイタリアの地域割拠的な風土の上に、上からの中央集権制度を導入したため、制度と文化の乖離という現象が生まれ、これがイタリア的な政治的無関心を招くことになった。建国初期はサルデーニャ系の「史的右派」が権威的統治を行ったが、1876年に「史的左派」が政権を取り、デプレティスが首相に就任した。デプレティスは選挙法改正に伴う有権者の増大に対応してトラスフォルミズモを唱え、政府が選挙区に利益を還元することで、政府維持派を作り出し、政権を維持することを至上目的とした。これにより、イタリアには政治の上層から社会の末端まで、恩顧―庇護関係(クライエンテリズム)によって貫徹され、地方名望家が政界と国民を結びつける仕組みが成立した。トラスフォルミズモは統一後の国家の脆弱性を克服した点で優れていたが、その倫理的問題や入力と出力のギャップという機能的な問題から批判され、19世紀末の南部問題、ローマ問題、労働問題等のイタリア的疎外による社会的危機の中で、徐々に融解していった。

ジョヴァンニ・ジョリッティ
(1842~1928)

1903年に首相に就任したジョリッティは、これらの危機を少なくとも部分的には解決し、トラスフォルミズモを変容させて、イタリアの自由主義化を促進した。彼は縦の関係としては普通選挙を導入して政治参加の拡大を図り、横の関係ではカトリック教会との提携を深めると共に、より広い派閥を政府に取り込んでトラスフォルミズモを拡大した。また、選挙おいては一貫した政策を提示してその是非を問うという近代的な選挙戦術を導入し、トラスフォルミズモ的戦略はおよそ南部にのみ向けられた。こうしたトラスフォルミズモの変容と危機の部分的克服により、イタリアは民主主義の形成期に立ったと言える。

ムッソリーニと黒シャツ隊

こうして第一次世界大戦を迎えたイタリアは三国同盟に属していたが、開戦時においては中立主義をとった。しかしサランドラ内閣は失地回復を約束したロンドン秘密条約を締結し、議会多数派を押し切って参戦に踏み切った。この背景には、ムッソリーニの属した「革命行動ファッシ」をはじめとする議会外の参戦団体による圧力があり、以後、議会外勢力の影響力が増大した。民主主義が定着していなかったイタリアでは、戦時中の議会外勢力の活動によりナショナリズムがひとり肥大化した一方、終戦後に戦勝国の立場にありながらも外交的に勝ち得たものが少なかったこと(オルランドの涙)を受けて社会不安は絶頂に達した。1920年にはジョリッティが政権に復帰し一時は安定を取り戻したが、その中でファシストが議会内外において権力を伸長させ、1922年にはローマ進軍に成功して政権を獲得した。その後、ムッソリーニは約4年の期間を費やして国民ファシスト党内外の対立を克服し、1926年に独裁体制を築き上げた。

【参考文献】

[1] 篠原一「ヨーロッパの政治―歴史政治学試論」(1989)東京大学出版会.

[2] 平島健司, 飯田芳弘「改訂新版ヨーロッパ政治史」(2010)放送大学教育振興会.

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