政治改革に先行して農業革命と産業の発展を達成したプロイセンは強国となり、ドイツ統一を主導した。このプロイセン政治の特色は「上からの改革」であり、これは官僚主義と軍隊に支えられた中央権力の強化と合理化をすべてに優先させるものであった。1871年に成立したドイツ帝国はプロイセンの発達した資本主義経済と遅滞した政治構造を継承するとともに、その社会構造にはラント(邦)とライヒ(帝国)の垂直的対立や、宗教的・階級的対立といった基本的対立を含んでいた。
帝国の形成と同時に普通選挙による帝国議会が設置され、社会的利益はそれぞれを代表する政党を持つようになった。しかし統一後もビスマルクとプロイセン人皇帝の下で「上からの改革」が継続され、政治議会には政策決定の実質的権限が与えられなかった。このような体制は宰相個人の資質に依存する面が多く、ビスマルクは多元的な政治勢力を操作することによって「上からの改革」を維持した。
そのためビスマルクが失脚すると政治構造にゆらぎが生じ、ヴィルヘルム2世は皇帝親政を行おうとしたが求心力に乏しく、議会の影響力は増大した。しかし、これは民主化と言えるものではなかった。議会の地位が向上するに伴い、政党は支持層や利益団体の要望を実現することをより一層強く求められるようになり、それらの政党や政府の間の紛争解決方法として、議会における多数決ではなく「交渉」という政治様式が発達した。「交渉」とは部分的利益間の妥協による紛争解決の手法であり、このように、民主化に先行して政治の多元化や流動化、ブルジョワ化が進行したところにドイツ政治の特徴がある。
しかし第一次世界大戦の進行に伴い、議会の政府に対する関与が深まっていった。そして1918年には敗戦の圧力の下で議院内閣制が実現し、翌年にワイマール共和国が成立した。しかし、ワイマール共和国は敗戦の結果を受け入れるための緊急措置という側面が強く、民主主義は十分な正統性を欠くものであった。そのため戦後経済への実効的な対策を打ち出すことができないでいるうちに、左右両翼の反体制勢力からの攻撃に曝されることになった。しかしワイマール共和国は動揺しつつも民主主義を守ることに成功し、1923年のラインラント進駐によるインフレを収束させた後、体制は相対的安定期を迎えることになる。
【参考文献】
[1] 篠原一「ヨーロッパの政治―歴史政治学試論」(1989)東京大学出版会.
[2] 平島健司, 飯田芳弘「改訂新版ヨーロッパ政治史」(2010)放送大学教育振興会.
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